院長の藤村哲之です。

私の祖父と父は、熊本で63年間耳鼻咽喉科を開業しておりました。
地域の皆さまの健康な暮らしへと貢献し、いつも温かく支えていただいていることに感謝の心を持っていました。その後ろ姿を見て育った私は、自然と心の通い合う地域医療を目指したいと思うようになったのです。

私が選んだ道は、耳鼻科と関連が深いとされる隣接科目、歯科。
耳鼻科の道へ進んだ弟とともにこの地に開業し、多角的な歯科治療を行っております。第二の故郷であるこの太宰府の地に開業することができたのは本当に奇跡的で運命すら感じました。

この先もずっと変わらず、地域の皆さまが健康で生き生きと暮らせるよう、貢献していきたいと思っております。


息子と

 


幼少期から小学校時代

幼稚園時代の私は引込み思案でどちらかといえば、「いじめられっこ」でした。幼稚園に行くのがイヤで、色々と行けない理由を考えましたが、そんな私の努力もむなしく、毎日親から叱られながら、幼稚園に通っていました。

小学校に入学した時、これからはクラスメートも幼稚園の時とは違うので、自分自身を変えるには、今しかないと思い、「脱・いじめられっこ」宣言を自分自身の中で誓い、毎日のように強い子や威張っている子にけんかを挑みました(ほとんど負けてましたけど・・・)。その甲斐あってか、いじめられることは無くなり、友達もたくさんできました。

その中には、いじめられっこが何人もいました。私にはいじめられている雰囲気が敏感にわかってたんです。その時気づきました。私の幼稚園での悲しく辛い経験は、決して無駄ではなかったんだと。

小学生の高学年になるとTV(当時は「巨人の星」や「侍ジャイアンツ」が放映されていました)の影響で、ソフトボールが盛んになり、私もバットとグローブを自転車にのせて、毎日あちこちのグランドへ行ってました。色々な場所で様々なチームに加えてもらい、試合形式でソフトボールを楽しんでいました。

私が中学生の頃に菅原文太主演の映画「トラック野郎」シリーズが始まり、巷はデコトラ(たくさんのイルミネーションを付けたデコレーショントラックの略)が走り回っていました。流行に弱い私は、自分の自転車にたくさんのイルミネーションを点灯するため、タイヤで廻すライト用の発電機を4個もつけて走っていました。さすがに4個もつけると変則ギヤを一番重くしたよりも、もっと重たくなり、おかげで毎日すごい筋トレになりました。


幼少時代、大好きだった祖父と近くの神社に初詣
左が小学1年生の私、ちなみに隣は耳鼻科医で4つ違いの弟

 


中学校時代

中学の文化祭では、担任の先生を口説き落として、当時大変高価で校内に一台しかなかった白黒のビデオカメラを拝借し、クラス一丸(私だけがそう思っていただけかもしれませんが・・・)「わが中学校の日常」の映画を作りました。自分のクラスのみならず、他のクラスの生徒さんもたくさん観に来てくれて、とてもよい思い出になりました。また、自分で言うのもなんですが、その時の教訓が生かされて、今でもビデオ撮影はそこそこ上手ですよ!


高校時代

高校時代は、ボウリング(別にクラブ活動をしていたわけではありません)に明け暮れた毎日でした。気の合う友達数人で学校帰りに自転車を飛ばして、ボウリング場へ通ってました。途中二人乗りで警官に止められたこと、数知れず。「また、お前たちか!」

この頃は、自分が何になりたいのか?(医療の道、パイロット、ファッションデザイナー・・・etc)何がしたいのか? どうしてこの世に存在しているのか?など、色々揺れ動く青春時代でありました。また、両親に対しての反抗期も最高潮でした。

自分の中での目的がハッキリしないまま、大学受験を迎え、1年間の浪人生活を送る事に。今から思えば、両親や兄弟に対しても大変申し訳ないことばかりしていました。


大学時代

歯学部の6年間は、アッという間に過ぎていきました。当然ですが、小学生の6年間とは全く違います。大学時代は学外で色々な方々(職種・年齢はバラバラ)とお知り合いになりました。今でもご縁が続いている方やお店が多数あり、それらのご縁は私にとって、とても大切な宝物です。

大学6年生のある日、大学院への進学も決まり、あとは卒業試験と歯科医師国家試験をパスするために猛勉強中だった深夜に電話が鳴り、母が「お父さんが突然倒れた。脳内出血で意識がない状態。とにかく祖父と祖母を迎えに行って、すぐに帰宅するように」。帰りの車中、隠居していた耳鼻科医の祖父が現役復帰を宣言し、私には「お父さんはまず助からないだろう、大学院はあきらめて、卒業後はすぐに就職するように」との言葉に、大きく頷くことしかできない私でした。

その後、奇跡的に命をとり止めた父は、最終的に半年間の入院は続けたものの、さらに奇跡を起こし、全く機能障害もないまま現在でも耳鼻科医を続けてくれております。本当に有り難く、また申し訳ないことです。

卒業試験の間際、昭和天皇が御崩御なされ、時代が昭和から平成に変わりました。したがいまして、私の歯科医師免許は平成元年発行で厚生大臣・小泉純一郎の署名(印刷)がございます。


左が私で、右が耳鼻科医の弟
卒業アルバム用の写真(ちょっと気取ってます)

 


勤務医時代

父が生還してくれたおかげで、予定通り大学院に進学する事が出来ました。専攻は、私が歯学部の時代からお世話になっていた先生が教授をされていた歯周病学講座です。

大学院の4年間は、大学病院での診療と共に、歯周病を治療するために用いる、歯石取りの専門器具の耐摩耗性を向上させる研究を続けました。

大学院終了後、益々歯周病に興味がわいた私は、当時の教授であった栢 豪洋先生のお許しを得て、福岡歯科大学の助手、講師さらに同じキャンパス内にある福岡医療短期大学の助教授として、診療、研究、教育に携わらせて頂きました。徹夜になることも度々の大学勤めではありましたが、一般開業医院では経験することができなかったであろう様々な仕事は、私を臨床医として、研究者として、そして何より人間として大きく育てて頂きました。

これも、偏に恩師栢 豪洋先生はじめ、福岡歯科大学に在籍されていた教職員の方々、ならびに歯学部・短大歯科衛生学科の学生さん達のおかげでございます。さらに一番忘れていけないのは、私が診させて頂いた患者様方のおかげです。

振返れば、平成元年の大学院入学から平成19年の永きにわたり、福岡歯科大学にお世話になりました。本当に有難うございました。


研究の疲れか? ただの飲みすぎか?

 


開業してから

平成20年1月、耳鼻科医である弟と共に、藤村医院 耳鼻咽喉・歯科を開業させて頂きましたが、開業地である太宰府市通古賀は、祖父・祖母が隠居の地としておよそ30年前に移り住みました。

私も大学卒業後から同居、平成14年の結婚を機に、本籍も太宰府市通古賀に変更しました。

4年前から大宰府、筑紫野付近で土地を貸して頂ける物件を探しておりましたが、なかなか折り合いがつかず、一度は「今は開業のタイミングではない」とあきらめかけた矢先、結果的に自宅から歩いて10分の距離の現在地をお借りする事ができました。

歯科医院は、ご存知のように件数がとても多く、しかも保険診療だけでは経営が困難となっている昨今、あえて新規で開業する意義を自分自身の中で、問い続けました。

これまで歯周病の専門家として20年近く培ってきた知識と臨床経験を活かせて、グラグラになってしまっている歯は、難しいですが、せめてその少し手前でお診せ頂ければ、最新の骨再生手術を施す事によって、入れ歯やインプラント処置を行わずに済むかもしれません。

患者様が一生涯、ご自身の歯でお過ごしになれるお手伝いがさせて頂ければと願っております。


藤村医院 耳鼻咽喉科(左)ならびに歯科(右)
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